こんにちは。タスキーグループ/経理支援チームの大学です。
今回私が紹介させていただく本は、創元社刊行の「あいだで考える」シリーズより、『言葉なんていらない?-私と世界のあいだ-』です。
「あいだで考える」シリーズは、不確かな時代を共に生きていくために必要な
・自ら考える力
・他者と対話する力
・遠い世界を想像する力
を養う多様な視点を提供する、10代以上すべての人のための人文書シリーズです。
本書は「言葉」という捉えどころのない存在について、今一度様々な角度から考察し、より豊かな付き合い方を考えてみようという一冊です。
私たちは言葉を通して世界やそこに住む人々とかかわり、ともに暮らしています。しかし、言葉による表現はときに不正確で、誤解やトラブルの元にもなりえます。
はたして言葉は私と人々/世界をつなぐ「メディア」なのか、はたまた両者を隔てる「バリア」なのか。そもそも私たちは、「発話=言葉を発すること」によっていったい何をしているのか?これらの問いから出発します。
■まず著者が述べたいことは、言葉とは、本物の不正確な影ないしは模造品のようなものではないという主張です。
そもそも、言葉を発するという行為には物事を言い表す(記述、描写、等々)以外にも無数の機能が存在しています。たとえば、「おはよう」「すみません」「せつない」などです。これらは何かの対象を言い表す言葉ではありません。
本書では、発話するという行為を、物事の特定の相貌(=特徴、側面、表情)に関心を向ける行為-また、そうした注意や関心を他社と共有しようとする行為-と特徴づけ、そして言葉というものを、その行為のための資源(=道具、工具)と位置づけます。
たとえば、眼前に広がる夕焼けについて「せつないね」と誰かに言うことは、その夕焼けを切ない風景という相貌のもとに捉え、相手にもその相貌に関心を向けるよう促す行為であると言えます。
このように、言葉なしには立ち現れない相貌というものが存在します。
だとすると、言葉を知らなけらば得られない着眼点や発想というものが存在し、したがって言葉を十分に知らなければ物事に対する見方は単純なものになってしまいます。一つの物事を様々な角度から見ることができなければ、その物事の奥行きを把握することはできないし、諸側面のうちの一つに対して意識的に注意を向けることもできません。
私たちはたいていの場合、言葉という資源を用いて表現を模索します。すなわち、しっくりくる言葉を探索するという行為自体が「考える」という営みの多くの部分を占めています。この過程を他者やAIに任せてしまうと、自分自身で物事の諸側面を吟味していることにはならない、という危険性があります。
■次いで、著者は「完全なコミュニケーション」という幻想から離れるべきであると述べます。
特定の人と極端に親密なコミュニケーション(共通の言葉や業界用語・権力勾配による忖度や我慢)を営んでいるときには、当人同士は分かり合えているかもしれませんが、それ以外の人々との間には高い障壁ができています。深く、繊細な事柄について高いレベルで分かり合うハイコンテクストなコミュニケーションは、そのコンテクストを共有できない人々をおのずと排除するものとなってしまいます。
自分に近い限られた人とのコミュニケーションと、自分から遠い多様な人とのコミュニケーションは、どうしてもトレードオフの関係にあります。その意味でも、他社との障壁が全く存在しない完璧なコミュニケーションというものは存在しない幻想であると述べます。
だとすれば、むしろ必要なのは、その都度コミュニケーションにどのような障壁が存在するのかに注意を向けることが必要であると著者は述べます。言い換えると、誰がどんなコミュニケーションから排除されているかについて自覚的になることが重要であるということです。
しかし、そのような排除や権力勾配等は、自分自身が排除される側でないと気づきにくいものです。
だからこそ、いつも同じ面子で同じように物事を見るのではなく、外部の様々な人々とコミュニケーションを試みることで、そのエコーチェンバーやフィルターバブルから抜け出すことが必要で、そうしてはじめて障壁が障壁として見えてくるということです。
たとえば、女性の配偶者を「嫁」と呼ぶのが常識であるような集団の中でずっと暮らしてきた男性が、ある時その集団以外の人々が集まる場で同じように「自分の嫁が」などと発したところ、微妙な空気が生じて、コミュニケーションが停滞してしまった、といった場面。この違和感を分析し、それまで何の気なしに使ってきた「嫁」という言葉について考え直すことで、「嫁」という言葉が男性優位の家父長制的な制度や価値観を継承した言葉であり、その集団はそういった価値観を避ける傾向にあったのだと知ることができます。
このケースにおいて、言葉の引っ掛かりや滞りは、コミュニケーションにとっての障壁というよりも、現状のコミュニケーションに潜む問題をあぶりだし、これからのコミュニケーションをより良いものとする一つのきっかけとなりうるものです。つまり、自分がこれまでどのような物事の見方や価値観に縛られてきたかを顧みて、それ以外にどのような見方や価値観がありうるかを知るためのヒントになりうるということです。
いかがでしたでしょうか?
普段何の気なしに使用している言葉(仲間内では引っ掛かりなく流通する言葉や、やばい等の多義語)について改めて意味や用法を考えなおしたり、価値観を探ることは面倒な行為ではありますが、そうした地道な探索を繰り返すことで新たな物事の見方が開かれるなど、より豊かな人生を歩むためのヒントになりうるものかと思います。
気になる方はぜひ手に取ってみてください。
最後までお付き合いいただきありがとうございました。
タスキーグループ/経理支援チーム 大学佳太朗